2005年04月

Wo ist Grassman? グラスマンどこにいるの?(2)

今年の3月は 私にとって記念すべき年でした。というのは 丁度会社を退職して満10年を経過したからです。そしてドッセルドルフより帰国 して約20年ともなります。これを機会にドッセルドルフで一緒に働いた そして大変お世話になった昔の同僚の方々と一緒に食事し大変 なつかしいひと時を過ごしました。

しかし 予めわかってはいたのですが Herr Grasmann と Herr Rieger とは 残念ながら 今回は会えませんでした。
というのは 私が帰国した後 この二人は 会社を退社して 誰も消息を知らないからです。
 個人情報の時代に敢えて 実名をここに書かせて頂くのは もしどなたか ご存知の方がおられたら 是非お知らせ頂きたいと思うからです。

( この2人以外に 今後 ドイツの方々の実名を このホームページに登場することはありません。
今回も皆さんに大変お世話になりましたが皆さんの プライベートなことですので・・・)


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人事担当経由で 選ばれた一人のドイツ人のセールスエンジニア に 私は最終の面接をしただけで 採用するようにした。

それが Herr Grasmann でした。 ちょっと生意気なところがあったが 大変真面目そうだったしHochshule で エレクトロニクスを専攻しているし 英語がうまかったからです。

早速 Bosch の 中央研究所に行くのに 朝早いアポイントであったため前夜 シュトットガルトの丘の上のホテルに泊まって 一緒に夕食をとることになりました。彼とは最初の会食でした。その時 私の事を知りたいというので 「自分は大学で法律を学んだが 現在は 電子部品の営業部に属し 主として ドイツ フランスの 大手企業への 新規開拓の仕事をしている。時にはセールスエンジニアであり 時には ドイツの会社のGeshaftfühler である。」 といったら 大学で法律を学んで 電子部品の営業をやっているとは 可笑しい ! と 人を軽蔑 したよな馬鹿にしたような顔で ケラケラと 笑ったその顔が 20年以上経った 今でも 昨日の出来事のように脳裏に焼きついています。 それで 私の身の上話をしました。


Herr Grassman と ボッシュ・ベルリン工場訪問後 ブランデンブルグ門を背景に 1986年春のことでした。
(その後1989年11月ベルリンの壁は崩壊し今は壁はここにはありません。)

「私は伯父が弁護士をしていたので勧められて法学部に入ったが 実際に勉強を始めてみると自分には 法律は向かないことがわかった。

慶応の学生生活が大変楽しかったのでよく遊び  他の学部に 転部するとか 他の大学に行くだけの意欲もなく そういう意味では無為に過ごした。大半の文科系出身のものはドイツでも同じとは思うが大学では知識を広く蓄え 社会にでて初めてその人の専門性を身に着けて行くのではないだろうか? 私は最初の会社で 圧電製品の市場開発を技術者と一緒に熱心にやっていたが どうしても家業を継げとのことで 九州の実家の家業をやっていたが どうも 商売が肌に合わず 退屈しているときに この会社から 入社しないかと 勧誘された。

同じ圧電製品の特許が取れて事業部を立ち上げたが うまく行かないので助っ人として 来ないかということで 渡りに船という感じで 人事担当役員の 3分間だけの面接で 入社させて貰った。当時 この会社は急成長会社で 途中入社は 200人に1人という激戦だったが 私は全く運が良かった。 その後 私のやりたいことを やらせて頂き 事業部の皆さんの必死な努力と協力があって その事業部も旨く行くようになり今度は 海外に売りに行って来い との命令で アメリカ 南米 と 売りに歩いたが 欧州にその市場あることがわかり 出張ベースで 何度も欧州に売り込みに来て ドイツの営業の方々の努力で それも成功して それが縁で欧州の市場を担当している」
と 話すと 半信半疑 といった顔でした。翌日は ボッシュの中央研究所の 4つのアポイントがあり そのうちの一つの Dr が 機械的な加速度計 の研究をされており 圧電磁器を加速度計として使用した場合 どのようなメリットデメリットがあるのか 又 その電気的な特性はとうなのか?
 との質問があり Herr Grasmann が 返答に困ったので そのDrが英語が理解できたので 私が 英語で 30分程 詳細について説明した。

これは前に会社で トヨタ 富士重工 などの 車両実験課に出入りし圧電型加速度計の開発をやっていたので私の専門の中の専門だったから Herr Grasmann は びっくりし この時以来 私の命令には絶対服従するようになり 仕事も一生懸命にやるようになりました。

そして彼も この会社を自分にとって素晴らしいものと思ったらしく 自分のガールフレンドも この会社で採用して欲しいとの要望を出して来ました。  ドイツ人の皆さんに相談してみると 小さな会社に 夫婦が共に働くのは 賛成しかねるとのことで その話は お断りましたが・・・。

彼の入社以来 ドイツ語で 得意先で苦労することはなく 大変楽しく 仕事ができるようになり彼に大変感謝しているものの 唯 彼を不憫に思っていることが ひとつあります。

 英語が話せないドイツの得意先の人 にドイツ語が話せない日本人を 連れて行く場合 ドイツ人の通訳の仕方に2通りありました。( これは フランスでも 同じでした。)


①.得意先を訪問する日本人をたてて 日本人に 英語で喋らせ それをいちいちドイツ人の顧客にドイツ語に訳し通訳として 脇役に徹する人 と

②.得意先を尊重するあまり あくまでも得意先の人は英語を理解できないのだから 自分が主体となってドイツ語で話を進める。

ドイツ語が話せない日本人には一切喋らせず 又 いちいち通訳をしないで自分が分からないところだけ を 日本人に聞いて答える。

お客が何を言っていたかは 帰りの車の中で話す
というタイプ   があります。

Herr Rieger は ①のタイプの人で誰にも好かれておりましたが Herr Grasmann は ②のタイプでした。私 自信も 客先ではドイツ語を話す のが礼儀と思って懸命にドイツ語を勉強し 彼とは 非常にうまく行ったのですが 日本から出張してくる偉い人 又は 偉くないが自分で偉いと 思っている人たちからは 逆鱗に触れることがあり 私が帰国後 そのことが理由で退社してしまったことは 何となく 彼を不憫に思っています。
 20年経った今でも気にかかっていることの一つなので 一度ゆっくり食事でもしながら 昔のことを話したいと思っている次第です。

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