2004年06月

Rothenburg の思い出・・

・・・・ 日本人はいい加減なドイツ語を 喋るな と言われて・・・・

毎年 6月になると ローテンブルグを思い出します。6月にはローテンブルグのお祭りがあり 又 2週間の休暇を取って ローテンブルグのゲーテインスティチュートにドイツ語の勉強に行ったからです。 Rothenburg は ロマンチック街道のハイライトとしてドイツ観光の目玉商品の一つです。

  どうしてドイツ語を勉強に行ったかというと   話は ドイツに赴任して1年経過した時にさかのぼります。 当時 事務所での部品営業部門の公用語は英語で 現地採用のドイツ人は英語を話せる人ばかりでした。 毎週家庭教師の Pheuffer 先生のところにドイツ語会話の勉強に通ってかなりドイツ語が話せるようになったと思って 事務所でドイツ語で話し始めると 非常に悪評でした。 マシーン営業の責任者である Rieger は 『日本人のために俺たちドイツ人がいるのだからドイツ語は勉強しないで欲しい』 とハッキツリ言われるし 同僚のファンガーレンと飲み屋で一緒に飲んで私がペラペラ?と

ビールの勢いでドイツ語で話し始めると

“Please do not speak with me in German, Du sprichst ein shlechtes Deutsch ! “

「自分と話すときはドイツ語で話さないで欲しい。あんたのドイツ語は

ひどい」  と言われたりさんざんでした。しかし  Rieger が昼食の時になると

日本人の真似をして 『 ヒルメシイクカー 』 など大きい声で言われると いい加減な

日本語を喋らないで欲しい とこちらも文句も言いたくなります。従っていい加減な

ドイツ語を喋るな という彼らの言い分も分からないではありません。

Pheuffer 先生のところでは まづ何でもいいから話しなさい といわれるまま 単語を並べて 話し始めると 喜んで聞いてもらえ 又ドイツレストランに一人で行って何でも食べられるようになったしデパート Kaufhaus で試着したりして何でも買えるようになったのでこれで自分のドイツ語も通じると思っていた矢先のことでした。どうも私のドイツ語は唯 単語を並べるだけで 通じるけれど

文法的に shlecht であるとのことのようでした。秘書の Dahlhäuser さんに相談すると

ゲーテのローテンブルグ校の2週間コース を選んでくれました。簡単なクラス分けのテストがありすぐゲーテより入学許可書が来ました。すべてホームステイで その家には

ギリシャ人イタリア人と私の3人が下宿人でした。ローテンブルグの方々のボランティア

で 安い費用で宿が提供され朝食は学校の食堂で無料 又ローテンブルグの主なレストランの割引券支給されました。学校ではドイツ語以外は話していけないと規則になっており

1時間目は校長先生のローテンブルグの歴史のお話でした。すべてドイツ語でしたが 先生は大変わかりやすいドイツ語で話す天才で ドイツ語での下記のようなお話を ずべて理解できました。

『 1631年 30年戦争のさなかのこと ローテンブルグを占領した皇帝軍の将軍が

市参事会員達の首をはねることになりました。たまたま、将軍が市のワインをすすめられた時、将軍はこの大ジョッキを一気に飲み干す物があらば 斬首はやめようと言いました。老市長がこれをうけ、見事に一気に飲み干してこの窮地を救いました。その時の様子を再現したのが、マイスタートルンクの仕掛け時計です。 11,12,13,14,15 時に 時計の両側の窓が開いて、テイリー将軍とヌッシュ市長が現れ ジョッキを手にした市長がワインを飲み干します。このマイスタートルンクの逸話を歴史劇や時代衣装のパレード、ダンスなどで再現して祝うのが「マイスタートルンクの祭り」で 毎年6月上旬に行われます。』



Rathaus の前で 12時のマイスタートルンク Meistertrunk を待つ観光客

2時間目の授業から 文法! 文法 !で 授業は午前中で終わりましたが 宿題があり

下宿でものんびり休んでおられない状況でした。そうこうしているうちに 日本人が何となく集まって私の歓迎会をやってくれました。私のように短期に勉強にくる者は少なく

皆1年単位で来ておられ 全部で10人ぐらいでした。医者の方 銀行の方 女子大生

ドッセルドルフの日本食堂の倅 などに混じって 近くのヴルツブルグ大学に1年後に

留学するためにドイツ語を勉強に来たというピアニストの 落合 敦 さん もいました。いつもドイツ語漬けになっている開放感から 日本で話をすることがこんなに楽しいものかを味合うひとときでもありました。銀行の方などは一流銀行の大森支店からお出でになっており 1年経ったら又大森支店に帰るのだとのこと 大変うらやましく思いました。我々の業界では そんな流暢なことは出来ずすべて泥縄式で 言葉は現地に行ってから勉強しろ ! といったやり方を取らざるを得ませんでした。変化が激しいからです。

週末は校長先生のきれいな わかりやすいドイツ語でのガイドでローテンブルグの近くへの遠足で これが又楽しいひとときでした。

リーメンシュナイダーの彫刻のある教会 昔の戦争の後のある砦 避難所 それに ワイン ・・・・

 ドイツの町はどこでも市の中心に Kirche 教会 があり そのまわりに Rathaus 市役所があり Apotheke 薬局があり というスタイルですが このローテンブルグは 街を守る 壁  Mauer が市の周りを 囲んでいるのが 現存していることが ローテンブルグの特徴です。この壁は戦争で崩壊したものを 復旧したもので 一つ一つのブロックにそれを寄付した方の名前が彫ってあり 全市民の協力でこの壁も再建されたことがわかります。その後 ドイツ以外の他の都市 例えば パリ 中国 にも同じような 丸い壁の跡 をみて日本と全く異なる市の防御体制に興味を持ちました。ある夜 ローテンブルグの市長さん主催の 落合敦さんのピアノコンサートがあり 多くの市民の方が聞きにきておられ 日本人の存在感を示しました。 毎日毎日 ドイツ語の文法に明け暮れしているうちにあっという間に2週間が経過しました。 又日本の皆様に集まって頂き私の送別会をやって頂きました。その時米を炊くのに苦労しているとのことでしたので 落合さんに 私の電気釜を寄贈して 帰りました。私はドッセルドルフに住んでおり いつでも ドッセルドルフ三越で 220V用の電気釜を購入できるからです。その後その電気釜も大変重宝されたようで落合さんが帰国されるときに 又次の人に寄贈されたそうで 今でもローテンブルグで活躍しているかもしれません。 公文ドイツ語は その後 1986 年に誕生しました。

もっと早く出来ていたら こんなにドイツ語で苦労することもなかったでしょう。



ローテンブルグにて お客さんと 会社の同僚と

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