2003年08月

フランス語が話せない奴はフランスに一歩も入るな!!

1970~80年代は 日本の高度成長の時代で TV,VTRを 中心とする民生機
器メーカーが 欧州市場を制圧した時代でもありました。ドイツのTelefunkenn 、Nordmend, Saba というメーカーは窮地に追い込みまれ フランスの国営企業トムソンは それらの企業を買収するなど 欧州再編成の時代でした。トムソンは 新製品開発拠点である研究所を ドイツSchwartzwald(黒い森)の Villingenにある旧SABAの工場に移し その総大将が フランス人のSorin氏で その配下にドイツ人 スペイン人 フランス人 が入り混じって仕事をしており 当然のこととして社内の共通語は英語でした。

ドイツ・フランス・スペイン に点在するトムソンの各工場に売り込むためには こ
のSorin 氏が統括する研究所に サンプルを出して 品質承認を取らないと 売り込めないシステムになっていましたので 足しげく通いました。シュツットガルトの空港からアウトバーンで1時間半位の距離でしたが、ベンツのレンタカーを借りて 空いているところを見計らって 時速 200Kmに挑戦するのも スリリン
グな 喜びでした。

一方 TV VTRに使用する 電子部品も同じく日本の電子部品は 欧州のメーカーを完全に制覇しコンペティターはすべて日本の電子部品メーカーで 国内
の競争をそのまま欧州に持ち込んだといった感じでした。ネタがよくないとうまい寿司が作れないように 欧州のTV・VTRのメーカーは 日本の電子部品を買わざるを得ず我々電子部品メーカーのセールスとの窓口である購買部門の人も 当然 英語が話せる人が配置され英語が話せない人は 納期催促係り 等の閑職に 追いやられる 等の人事異動がなされました。

訪問したとき今社内で英語の研修中で終わるまで待って欲しいと 待たされることが しばしばで彼らは 英会話を勉強を始めた 初心者レベルの方が多く 毎日 通勤の車の中で英会話の勉強をしているという方もおられました。

前任者の努力でDijonにあるトムソンの工場に わが社の1億円の部品装着機がすでに稼動していました。 その装着機は 日本のコンペティターである M社との競争の結果 納入されたもので   我が社のチップコンデンサー と M社のチップ抵抗 他を 自動装着するものでした。

 あるとき それらのチップ部品が装着できない とのクレームが発生し 工場長のGuillemann さんに呼びつけられました。M社から 2人が来ておりましたが 当社は技術者が出張中で私一人で訪問しました。 当時 フランスには営業所がなく ドイツのドッセルドルフからの 訪問でした。話を煮詰めていくと 我が社の 装着機の部品に欠陥があり そのため,3,2X1,6ミリ角の チップ部品がスムースに通らないことが判明しました。

当初 英語で 話し始めた Guillemannさんも  問題の核心にふれ説明が複雑になると彼の英語では難しく 尚且つ M社の Sさんがパリに15年住んでいるパリの営業所長さんで フランス語が堪能なことが わかると その後の 会話はすべて フランス語になってしまいました。問題の主題が 我が社の機械の部品が悪いことにあったので 会話は 当然Guillemannさん と私とのやりとりということになってしまいました。

今であれば フランス語で 堂々とGuillemannさんと やりとりが出来るのですが当時 全然フランス語を理解できず又話せなかったので M社の Sさんは私の通訳として終始しました。会談も終わり 3人で一緒にタクシーに 乗りDijon駅まで話ながら 帰りました。そのタクシーの中でM社の Sさんは 1億円の装着機が 我が社との競争で負け今日は 自分たちのミスでもないのに呼び出され 1日を棒に振り  通訳までやらされ 憤懣やる方なくもうすぐDijon駅に着くころの 凱旋門が 見えるところで 私は Sさんより 「フランス語が 話せない奴はフランスに一歩も入るな!!」とののしられました。


逆の立場であれば その気持ちはよく理解でき 私も同じことを言ったと思います。物を売り込むのに フランス語を勉強する努力を何もせずに お客さんであるフランス人にタドタドシイ英語を 話させ 苦労してフランス語を勉強したコンペティターの人に通訳をやらせて のほほんと しているのは 許せないと 思うのは当然です。
それが良い気合となって フランス語をものにしなければと 目覚めさせて頂いたSさんには今でも 大変感謝しています。
これでドイツ語とフランス語を同時に勉強しなければならない羽目になりました。


Dijonの凱旋門をみると,いつも当時のことを 思い出します。

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