2000年01月

Schoenes Wochende! Bon weekend!

ドイツに 赴任して 一番 気持ちのよい 言葉は Schoenes Wockende !でした。 金曜日の仕事が 終わって帰るときに 事務所 全員で お互いに 明るい声で言い合う Schoenes Wockende !は 実にすがすがしく気持ちよく  ドイツに赴任して来て 本当に良かったと思う 一瞬でした。   フランス人の方々も 金曜日に別れるときには bon weekend と 必ず云います。   日本では 月月火水木金金 と 土曜・日曜も 関係なく 刻苦勉励して働いてきた 長い歴史のせいか このような言葉は 定着してないように思います。 強いて 直訳して「良い週末を!」 と 云っても ひびきが悪く ピント来ません。  彼らは 生活のためでなく 叉 仕事のやりがいのためでもなく 本当に 休暇のために 働いている いう感じです。毎年期末に近くなると 総務担当者が 個人別休暇未消化一覧表を 壁に張り 休暇の完全消化を 促します。 欧州の人は 公私の区別 仕事の時間と プライベートの時間 休日の時間の区別が明確ですが 日本人は仕事とプライベートの区別が明確でなく やはり 未だ 我々に週末を家族で楽しむ という歴史が浅いからだろう と思います。 日本人は 上司が残っていると 仕事がなくとも だらだらと 仕事をして居残ったりする風習がありますが 欧州の人は そういうことには お構いなしに   5時定刻になると 5分以内に 帰ってしまいます。仕事が忙しく 日曜でないと 引っ越せないので ある日曜日に 引越しをしましたら 普通の運送屋さんは 日曜日は やらないと云うので 会社でいつも 使っている 輸入業者の車で 運んでもらいました。   誰も 気がつかないように荷物を静かに運んでいました。 後で 請求書が きたので 日付けを見ると 月曜に運んだように なっていました。  日曜日には組合の規定で働いてはいけないことになっており 日曜日に 働いたり 内職を したりする人のことを 組合員を裏切る Sshwarts Arbeiter というとのこと。    8月末に 単身赴任し 住民登録・免許証などの 手続きが 一段落したら 未だ 9月だというのに今度は 年末の休暇は どうするのか と 秘書の Frau Dahrhaeuserさん 他 多くのドイツの方々からやれ  カナリ-島 が よい とか シヤモネー がよいとか   心配されて  パンフレットを 持って来てくれました。    結局 丁度 アテネ行きの 格安航空券 が あるし 冬は寒いので 暖かい 南の ロードス島 が よいだろう  ということで アテネ で 一泊して 船で ロードス島に 行くことにしました。 日本人の経営する小さな旅行社のすすめでアテネ 行きの格安キップが あるので  暖かい ロードス島で 過ごされたら 如何でしょうか?   寒い ドイツで 単身で寂しく 正月を 過ごすより はるかに良いですよ。 という提案に のったので 旅行社で 12月28,29日 の 2泊を アテネ 4泊を ロードス島の ホテルを予約してくれました。     アテネから ロードス島 までは 景色を 楽しむことが出来るので  船で行ってください。船のキップは 港ですぐ買えるので 予約しないということでした。昼すぎに ドッセルドルフ を 飛び立った 飛行機は 100人乗りの 小さな 飛行機で 離陸し 禁煙の サインが 消えると 一斉に全員が タバコを 吸い始めました。乗り込んで はじめてわかったことですが 格安キップ とは いうものの 何ということはない ギリシャ から ドイツへ来ているGastarbeiter(出稼ぎ)の人たち専用の 年末帰郷特別割引飛行機でした。 タバコの煙で 息が出来ないほどでした。 ギリシヤ人は こんなにも タバコを吸うのかと びっくりもしましたが ドイツで 重労働をしている 労働者ばかり かも知れませんアテネについてみたら 急に寒くなり 雨が降り出し それが 雪になりました。  暖かいところへ行くという先入観から 軽装で来ていたので アテネで 傘を買い マフラーを 買い それでも 尚 寒いので 手袋も 買いました。 アクロポリスの丘の上に立つと 砂が寒風にとばせれて 吹き付けてきて 夢にみた パルテノン神殿も 悠久の歴史を 味わうどころではありません。  12月30日 一刻も早く 暖かい ロードス島 へと Pireasの 港 へと タクシーを 飛ばすと 港には 人っ子一人いなく 年末は休みであることは 人に聞かずとも明白でした。すぐアテネの旅行社に行き 飛行機便はないか 調べたところ 行きはあるものの   アテネに帰る便が満席とのこと。 アテネ⇒ドッセルドルフ の 航空券は 安いキップなので日付けの変更はできないとのこと。    止むをえないことですが   この 寒いアテネに尚 1週間留まらなく なりました。人生は全く予期しないことが 起こるものです。 思いもかけず アテネに 1週間も 滞在せざるを 得なくなったので アテネのアクロポリスのパルテノン神殿・古代アゴラ( 昔の商店街 の遺跡)には 毎日 行き ここで ソクラテス や  プラトンが 弁舌を 振るっていたのだろう と 想像し ロマンにひたりました。     国立考古学博物館には 紀元前13世紀に 栄えたという ミケーネ文明の遺品 アガムネノン の ものといわれる 黄金のマスク が 印象的でした。 当時 私たちの商品の1つであった セラミック コンデンサー の セラミックという 言葉の 語源は Keramik という町に 陶工が 多く住んでいたから ここから セラミックとなったと  ガイドブックに 書いてあったので 職業柄 興味があったので地図を たよりに ひとりで 歩いていってみると 今は  何の変哲も無い 荒地でした。しかし 昔は陶器を焼く工場があったのでしょう。        夜は 退屈なので 『夜の タベルナまわり』 という観光バスにのって    観光客相手の ギリシャの ダンス を   ギリシヤの 料理  と酒を楽しみながら 見るツ-ア で過ごしました。 アテネには『TABERNA』という看板の店がたくさんありましたが 日本人には奇妙な言葉タベルナは ギリシャの大衆食堂の ことでした。甘草から作ったという『ウゾ 』という 食前酒 は 最初は 臭く とても 飲めないのですが それが 3日も 続けて飲んでいると 毎日それを飲みたいという 気持ちになり ホテルの自分の部屋でも飲むようになったのですがドイツに帰ると ドイツにも ギリシャ人が いるので 『ウゾ』は売っていましたが 「ウゾ」 は 全く 飲む気になりませんでした。やはりその土地によってその嗜好が 変わってくるものです。アテネ市内も狭いもので 3日も 歩いていると見尽くしてしまい 退屈しているところに  『 ミケーネ』 への 観光バスがあることを知り 行くことにしました。  高校時代に感動して読んだ本の1つである 岩波文庫の 「古代への情熱 」という ドイツ人・ハインリッヒ・シュリーマンの自伝で 知った あこがれの ミケーネです。貧しい ひとりの男 が  18カ国語 を 独学でマスターして 貿易で巨万の富を得 少年時代に読んだ ギリシヤの詩人ホメロスの『イリアス』や 『オデュセイア』を  それまでの通説に反して フィクションでなく歴史史料の事実と信じて現実の地図の上にホメロスの詩に登場する地名をあてはめ、トロイア、ミケーネなどの発掘したという成功物語に 出てくる 『ミケーネ』 に 思いもかけず 行ける事になったのです。    ミケーネ 行きの観光バスは 少し雪が降り始めた アテネを後にしました。 バスガイドさんは ミケーネの歴史について 英語での説明が終わると フランス語でそして スペイン語でと 大変忙しく早口言葉で同じ事を3度説明してくれました。コリントス という 運河があるところを過ぎると 雪が降り始めそのうちに バスが止まってしまいました。しばらく停車した後 アナウンスが始まり 本日は雪で山道が危険であるので引き返す 代金は返金する。そして 明日 又 同じ時間に行くということになりました。雪用の チェーンなどの装備をしていなかったようです。とにかく仕方がないので 又 翌日の バスにのりました。 今度は コリントスの運河を 越えても 残雪はありましたが 快調でした。やっとのことで  夢に見た ミケーネの城砦 にたどりつきました。大きな三角石に2頭の獅子が浮き彫りにされていて 当時のミケーネの権力を誇っているようです。しかし よくこんなところまではるばる ドイツから 発掘に来たものだと 感心しました。 ここで私の 尊敬する シュリーマンの ことを ご紹介させて頂きたいと 思います。彼は1822年に ドイツの寒村の貧乏な 牧師の父のもとに生まれ 13歳の時には借金の返済に苦しむ家族を助けるため 学校をやめて 食料品を売る店で働かざるえなくなりました。 たまたま  近くの粉やが酔っ払って朗読するホメロスの叙事詩に感動し登場する戦士たちの偉業を 残らず暗記している時期に たまたまクリスマスのプレゼントに 父からもらった 世界の歴史の本の中の 一枚の絵 が 彼を  トロイヤの遺跡を発見したいという野望を 彼に植え付けたのです。彼の自伝によれば 『そこには、燃え盛るトロイアの町、巨大な城壁 父のアンキセスを背に負い  幼子アスカニオスの手を引いて逃げて行くアイネイアスが描かれていた。その時の私の喜びは とうてい想像してもらえないだろう』とあります。 この シュリーマンのまことにみじめな境遇から身をおこし小売店の小僧にすぎなかった男がアメリカで銀行を開き ロシアで貿易商として活躍しながら世界をとびまわり巨万の富をつくりその資金で ついに かって夢見たものを発見しようと 大地に穴を掘るまでその初志を実現した成功物語は じつに興味深いものがあります。彼の運命を築きあげた手段としての 『18ヶ国語をどのように学習したか』 も 大変参考になるものです。 まず英語を 彼の発見した 下記の学習法に 基づいて 学習しました。  ①. 非常に 多くを 音読すること②. 決して 翻訳しないこと③. 毎日 1時間を あてること④. つねに 興味のあることについて 作文を書くこと⑤. これを ネエイテイヴの先生の指導によって訂正すること⑥. 訂正されたものを 暗記すること⑦. 前日訂正したものを 人前で 暗唱してみせることそして スコットの「アイヴァンホー」他を 暗記していきました。その後 アムステルダムの「シュレーダー商会」に勤務するようになりロシア語の必要性を感じ ロシア語の学習を始めました。当時アムステルダムにはロシア語を教える先生がいなかったので 1冊の古い文法書1冊の辞書 と フランスの教訓物語 『テレコマスの冒険』のロシア語訳を暗記しながら短い文章を作ってはそれを暗記しました。勿論先生がいないので それはまずいロシア語でした。しかし そのロシア語を暗記し他の人の前で暗唱してみせたら進歩も早いと思い 貧しいユダヤ人を一人 週4フランで雇い『毎朝2時間私のところに来て 私のロシア語の暗唱を聞かねばならなかったが 彼はひとことのロシア語も わからなかった。』 とあります。しかし彼の声が あまりにも大きかったので 他の下宿人から苦情が出て 『私はこのロシア語を学習している間に2回も引っ越さなければならなくなった』と記してありますが このロシア語こそが 彼の運命を変え大富豪になる 要因となったのでした。 というのは ロシア語ができるので 年収も倍となり 「シュレーダー商会」から セント・ペテルスベルグに代理人として 派遣され  独立することが 出来たからです。

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